勘十郎堀
2009.07.25 TOPへ
◇今から300年前、水戸藩は運河掘削を実行したが残念ながら中止となってその跡が写真のように残っている。この池の説明看板があるので、以下に記載する。
 勘十郎堀
 勘十郎堀は、涸沼の海老沢から城ノ内を経て巴川の紅葉を結ぶ運河です。水戸藩三代藩主徳川綱条は、寛文7年(1667)以来、数回にわたり計画、中断していた運河計画を美濃の人、松波勘十郎を登用し、宝永4年(1707)に着工、宝永6年(1709)まで工事を行いました。
 この運河は、水戸藩をはじめ東北諸藩の年貢前や物資を、那珂川、北浦などを経て江戸へ運ぶ内陸水路を貫通させ、藩の財政建て直しを図るため計画されたものです。しかし、土質がもろいなど工事は難航しました。また、難工事に動員されたあげく労賃の支払いもとどこおったため、宝永5年(1708)12月、領民代表が江戸におしかけるほでの農民一揆を引き起し、松波勘十郎は水戸藩から追放され財政改革は中止されました。
 しかし、水戸藩では宝暦5年(1755)工事を再開します。富田村(旧麻生町)の勧農役、丹羽惣衛門が工事を行いましたが巴川との水位差が大きく断念、「羽生堀」と名付け11月終了しました。 
                                  鉾田市教育委員会
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